漫然と生きている限り「自分の時間」はない。

朝、目覚まし時計の音で起き、いつものシリアルを食べ、満員電車に乗り、大体8時間ほどパソコンの前に座ったあと、再びpackされながら帰宅し、適当な夕食を作って食べ、残った気力を振り絞ってお風呂に入り、すっかりヘロヘロになったところで思う。今日、私には自分の時間がなかった。身体はもう疲れたし、早く寝てくれと要求するのだが、心が納得してくれない。このまま寝ては私は今日生きていたとは言えない。何かするべきだ。こうなるとさっぱり寝付けなくなる。かといって、起きていてすることといえば、だらだらスマホを眺めたり、どうでもいいような本を読んだり。得てして不完全燃焼のまま、翌朝の自分に呪われることになる。具合が悪い。昨日なぜ早く寝なかったのだと。

 

しかし、考えてみれば、朝起きた瞬間から、それは私の時間だったのである。それなのになぜ、一日の大半を「自分の時間」だと思えないのか。それは、私が漫然と生きているからだろうと思う。すっかり慣れた通勤路、何百回となく繰り返した作業、毎日会う同じ顔ぶれ。初めはすべてが新鮮だった。電車の外に流れていく景色は面白かったし、ドラッグ&ドロップはゲームみたいだったし、フルグラはなんておいしい食べ物だと思ったし、この人の隣で眠れたら天国のようだろうと思った。

それらの刺激はすべて、繰り返し繰り返し脳の同じ回路を通り続け、回路は強化され、しまいには自動的にその回路だけが使われるようになった。漫然と生きている、ゲームでよくある「オートモード」状態に「自分」の意思は介在しない。だから私には「自分の時間」がない。

 

海外旅行に行くと「生きている感じ」が得られるのは、オートモードが適用できないからだ。ぼーっと地下鉄に乗っていればスられるし、何も考えずに水道水を飲めばお腹を壊すし、ただ待っていては道すら渡れない。そういう状況では自分の本能が立ち上がるのを感じる。五感が敏感になる。エネルギーの消耗は激しいが、充足感がある。もちろん、その国に住んで慣れてくれば、その国用のオートモードができあがってしまうだろうけど。

 

よく、人生を変えるにはという問いに対して、通勤路を変えてみましょうなんていうアドバイスがされることがあり、内心そんなことで変わるかと思っていたわけだが、オートモードから抜け出して、脳の新しい回路をつなぐ観点では大いに有効なのかもしれない。

どうせ同じ年数生きるのなら、楽して漫然と生きるより、多少負荷がかかっても自分の時間を多く生きたいと思う。