大人に
大人になるということは
自分で自分の機嫌を取れるようになること。
泣いていたらあやしてもらえる年はとっくに過ぎた。
輪廻
仏教もインド思想もすごく面白くて、この思想とともに人生を生きていけたらどんなに心強いかと思うのだが、
肝心の
二度と輪廻転生したくない
という気持ちが理解できないので、
仏教徒にもヒンドゥー教徒にもなれそうにない。
むしろ輪廻転生しまくって、あらゆる人種、あらゆる階層、あらゆる動物、あらゆる植物の視点でこの世界を観てみたい。と思えるのはわたしが恵まれた環境で生きているからなのか。
ちなみに二度と産まれないメリットが大いなるものとの合一ならそれもありっちゃありかなと思うので、どちらかというとヒンドゥー教寄り。
ま、死後のことなど考えてもわからないので、
善く生きよう。
クローン
自分のクローンを作りたい人の気は知れないが、想像するに、
大概の場合、クローンはクローン自身のためではなく、クローン元の人間のために生み出されるだろう。本体が生き延びるために臓器を取るなり、厭なことの身代わりにするなり。中には、幼い子どもを残していくのが不憫で代わりになんてケースもあるかもしれないが、何にせよクローンに対して、それがわたしであるという意識はないはずだ。
ところでわたしの身体を構成している細胞は日々生まれては死んでいき、7年もたつと完全に入れ替わるらしい。
全く同じ遺伝子情報を載せた全然違う細胞によって構成された生命体という意味では、今のわたしは7年前のわたしのクローンのようなものだ。それにも関わらず、わたしは7年前のわたしと同じ人間だという意識がある。
一方でたとえばわたしが5分後に何らかの理由で、記憶喪失に陥り、記憶が永久にもどらなかったとしたら、構成する細胞はほとんど変わらないにもかかわらず、記憶喪失後のわたしは5分前のわたしと同じだと言い切れるかかなり怪しい。
つまりわたしとは実体のないただの概念なのかもしれない。
日本人が生まれては死に、その構成員がいくら入れ替わっても日本国があるように、構成員が全く同じでも占領されたら別の国になるように、そして国というものが実体のない概念であるように
わたしの細胞がいくら入れ替わっても、わたしだと思うように、記憶を失ったらわたしではない気がするように、わたしとはただの実体のない概念なのかもしれない。
日本人は日本国を幻想できる。
細胞がわたしを幻想しても不思議ではない。