子供を生んで存在不安が消えたこと

子供の頃からドジばかりで、大人たちに怒られることも、同級生たちにバカにされることも多かった私は、ずっと不安だった。私はここにいていいのか、私は生きていていいのか、私は生まれてきてよかったのか・・・なんとか存在を許されるためにがむしゃらに勉強したりもした。

後に夫となる人とは結婚前に長く付き合ったが、結婚するまでは遊びなだけで結婚する気はないんじゃないかとか、結婚してからは本当は好きでないのに惰性で結婚したのではないかとか、とにかく不安が消えず、試し行為的なことも随分してしまった。

こんなふうにごく幼い頃から長いこと付き合ってきた存在不安が、子供を生んでからだいぶ小さくなった。

 

生まれてきた子供に触れ、この子がこの世に生まれてきたことは祝福であり絶対に正しいことだと無条件に感じた瞬間、この子の誕生の必要条件である、夫との出会いも、そして、私自身がこの世に生まれたことも、祝福であり正しいことだったのだと腹落ちしたのだった。

 

もちろん子供の誕生はそのことに気づくきっかけだっただけで、最初から、命はすべて善きものなのだった。

howではなくwhyがやりたいなら

ある高名な先生が、東大在学中に、 how(どのように)ではなくwhy(なぜ)をやりたいなら東大辞めて京大に行けと言われたと書かれておられたのを見て、昨今のコロナ有事下で露呈した政府と国民の間の絶望的な断絶の原因がわかった気がした。

 

国民は悪手と感じる政策に対してwhyを問うが、学生時代からwhyを切り捨てhowのみ考えるよう訓練されてきた官僚たちはその答えを持ち合わせていない。
もちろん政策実行者たる彼らにはhowを存分に考えてもらう必要がある。
だけれども組織として、ほんの少しでも、与えられた命題にwhyを問える風土があったなら。

 

オリンピックは今年必ず開催しろ(命題)→検査数を絞って陽性者数を減らそう(how)
→オリンピック開催の目的は?この状況下で実行することでその目的を達成できるのか?(why)

 

旅行代理店業界を国民の反感を得ない形で潤す方法を考えろ(命題) 
→旅行代理店を通した旅行の半額補助はどうでしょう。自分が得していると感じるときは他人の得にも寛大になれますよ(how)
→苦しんでいる業界は他にもたくさんあるのになぜ旅行代理店業界だけ?コロナ感染拡大局面の今実行したら苦しむ人がより増えるのでは?(why)

 

そこにwhyがあれば命題が誤っていることに気がつける。状況が変われば立ち止まることだってできる。だけどhowしかなければ誤った命題でも愚直に実行するだけ。

howしかもたない官僚組織の中で例外的にwhyを問うた人は辞めていくか潰されてしまう。

 

多くの人は政治家を変えろと言うけれど、政治家なんて構造的にいつの時代も利益誘導と再選のことで頭がいっぱい。

だから私は、官僚組織が、少年少女の頃はwhyに夢中だっただろう日本屈指の頭脳を持つ彼らが、いつの間にか切り捨てきたwhyを取り戻すことが日本再建の第一歩だと思う。

 

 

(それか京大卒を優先登用しよう)

 

何故と問うてはならない種類のこと

学校教育はひたすら問に対する答えをみつけさせるので、問うてはならないことまで答えを探してしまうことがある

何故わたしはこの親のもとに、このような容姿で、このような素質を持ち、この時代の、この国に生まれてきたのか
何故よりにもよってこのわたしがこのような目にあうのか
何故あのときあいつはあんなことをしたのか
何故...

子供のなぜなに期が来たら伝えたい
この世には理由がわかることと、わからないことがあると、私は思うと
反省すべきこともあれば、ただくじ運が悪かっただけのこともある
すべて自分の責任だなんて思わないで
すべて運命のせいだと思わないで

それに割けるリソースの問題

夫の愚痴を言う人を前にいつも内心思っていた。本人に言えばいいのに、と。

ところが、結婚して子供が生まれて気がついた。本人に言った場合に発生する喧嘩なり、論争なりに割く、エネルギーが残ってない、あるいはもはや割くことすらもったいないという事態があることに。

小さな失恋

パートナーと喧嘩するのは、小さな失恋をするようなものだ。パートナーに対する幻想が少し壊れて、現実が少し露呈する。こんなに長く一緒にいるのに毎回小さく傷ついて気づく。まだ恋心が残ってることに。まだ愛に変化していないことに。

悲しみが腐る

好意を拒絶されると悲しい。シンプルにそれだけ。そこに、彼は好意を受け入れるべきなのにとか、彼は私にそんな思いをさせるべきではないのになんて、べきが絡むと、途端に悲しみは腐って怒りになる。あるいは悲しみつながりで過去のことを引き出し始めてもやはり悲しみは腐る。悲しいな、ああかなしいな、なんてシンプルに味わえたらいいのに。

サンタはいないのと同じように

この世でたった一人の私にぴったりの王子様は存在しない。

前者はまだかわいい。プレーヤー1(親)はそれが幻想だとわかっているし、プレーヤー2(子)も友達に教えられたり、ある日サンタが来なくなったりして、いつか気づくときが来る。

しかし、後者はとてもやっかいだ。

プレーヤー1(女)への洗脳は終わらない。幼児のうちはお伽話のお姫様、少女になってからはほぼ恋愛がテーマの少女マンガ、長じてからは月9のドラマで、繰り返し繰り返し、洗脳される。

この世のどこかに私にぴったりの男の人がいて、いつかその人が私を見つけ、いつまでも幸福に暮らすことができるだろうと。(ロマンチックラブイデオロギー)

 

一方プレーヤー2(男)には、その洗脳はほとんどなされない。幼少期から彼らに提供されるコンテンツの多くは友情!根性!戦い!世界!に満ちていて、恋愛はおまけのようだ。もっとも、ジブリ映画や流行歌などで、彼らにもそのイデオロギーはある程度までは共有されているから、交際初期に女と一緒に幻想を視ることもできるし、モテる男などは女の求めに応じて、ロマンチックなそれらしきものを提供しつづけたりもする。

 

こうして、幻想のうちに結婚した男女に早晩悲劇が訪れる。イデオロギーに染まりきっていなかった男たちは、戦いの世界に戻っていくし、女達はあんなに愛した男が王子様ではなかったことに気がついて、愕然とする。

 

結婚しなくとも、幻想を共有してくれる男と出会わない場合は、いい男がいないとなげき、あるいは幻想を共有している期間に結婚しなかった女性は、この人も王子様ではなかったと見切りをつけ、また王子様探しを再開する。

ああ 日本のどこかに 私を待ってる 人がいる(fromいい日旅立ち)

 

でもいないのだ。

私を満たし、生涯私を幸福にしてくれる王子様などは。

 

実際にいるのは、一緒に生活を創り上げていくパートナーだ。それに、夢見た王子様ではなかったかもしれないが、私が今日派手に転んだり、転職したり、結婚したり、子供を産んだりという、社会にとっては極めてどうでもいいことに、興味をもってくれる人が親以外にいるということは、なんと充分に嬉しいことだろう。

 

だから、当該イデオロギーはただのお伽話だと目を覚ます女性が増えれば、男女のすれ違いは減り、幸福度は増すのではないかと思う。

 

まぁ欧米のように男女ともロマンチックラブイデオロギーを深く共有するという方向もあるかもしれないけど。