自己嫌悪しているうちは

なにもしなくていい。

なぜこのような顔をしてなぜこのような仕事をしなぜこのような人たちと過ごしているのか、自己嫌悪しているうちはなにもしなくていい。なぜに対する答えは永遠に見つからないから。

このような顔をしてこのような仕事をしてこのような人たちと過ごしているのが紛れもなくこの自分だと引き受けないことにはどこにもいけない。心の奥そこから聞こえる。

I'm here! It's me! I'm here! It's me! 

 

 

適応能力

「最も強い者が生き残るのではなく、
最も賢い者が生き延びるのでもない。

唯一生き残ることが出来るのは、
変化できる者である。」と本当にダーウィンが言ったかどうかはおいといて、生命の誕生から連綿と命を繋げてきたものたちの子孫たる我々には恐るべきほどの適応能力が備わっていて、物の話では 結婚したり宝くじに当たったり目標を達成したりした幸福感も 離婚したり死別したり障害を負ったりした絶望も 時間がたてばその状態に慣れることで薄れていって大体元の程度に戻るそうだ。

ずっと幸福で居続けられないことはずっと不幸で居続けなくてよいことと表裏一体であり生存には有利なのかもしれないが、幸福を追求せよと煽りたてる(消費活動を活発にするために)社会のなかでは幸福でない自分にはなにか重大な問題があるように思ってしまう。

だけど私が幸福でないのはご先祖様から受け継いだ適応能力のせいだ。それは絶望から私を救い、幸福を奪う。そして生命を繋いでいく。

もやもや

最近心が晴れない。

冬に元気がなくなりやすいタイプなので、それもあるかもしれないけど、まだ過ごしやすい気候なのに。

仕事は飽きているけれども強い不満はなく、夫とも仲良くやっている。特に困っていることも悩んでいることもない。

だけど、日々心に溜まっていく澱。有休とって、一人、温泉に行ってみたけれども、効果なし。

ヨガに行ったら幾分ましになった。でもましになっただけ。

友人と高級料理を食べに行けども、そこにおり、休日に一日中寝てもそこにおり。

このもやもやは一体なに。

でも少しだけ心当たりがある。

やるべきことから逃げているときの憂鬱。

ささいな、でも放置されたTo Do たちが私から気力を奪う。

漫然と生きている限り「自分の時間」はない。

朝、目覚まし時計の音で起き、いつものシリアルを食べ、満員電車に乗り、大体8時間ほどパソコンの前に座ったあと、再びpackされながら帰宅し、適当な夕食を作って食べ、残った気力を振り絞ってお風呂に入り、すっかりヘロヘロになったところで思う。今日、私には自分の時間がなかった。身体はもう疲れたし、早く寝てくれと要求するのだが、心が納得してくれない。このまま寝ては私は今日生きていたとは言えない。何かするべきだ。こうなるとさっぱり寝付けなくなる。かといって、起きていてすることといえば、だらだらスマホを眺めたり、どうでもいいような本を読んだり。得てして不完全燃焼のまま、翌朝の自分に呪われることになる。具合が悪い。昨日なぜ早く寝なかったのだと。

 

しかし、考えてみれば、朝起きた瞬間から、それは私の時間だったのである。それなのになぜ、一日の大半を「自分の時間」だと思えないのか。それは、私が漫然と生きているからだろうと思う。すっかり慣れた通勤路、何百回となく繰り返した作業、毎日会う同じ顔ぶれ。初めはすべてが新鮮だった。電車の外に流れていく景色は面白かったし、ドラッグ&ドロップはゲームみたいだったし、フルグラはなんておいしい食べ物だと思ったし、この人の隣で眠れたら天国のようだろうと思った。

それらの刺激はすべて、繰り返し繰り返し脳の同じ回路を通り続け、回路は強化され、しまいには自動的にその回路だけが使われるようになった。漫然と生きている、ゲームでよくある「オートモード」状態に「自分」の意思は介在しない。だから私には「自分の時間」がない。

 

海外旅行に行くと「生きている感じ」が得られるのは、オートモードが適用できないからだ。ぼーっと地下鉄に乗っていればスられるし、何も考えずに水道水を飲めばお腹を壊すし、ただ待っていては道すら渡れない。そういう状況では自分の本能が立ち上がるのを感じる。五感が敏感になる。エネルギーの消耗は激しいが、充足感がある。もちろん、その国に住んで慣れてくれば、その国用のオートモードができあがってしまうだろうけど。

 

よく、人生を変えるにはという問いに対して、通勤路を変えてみましょうなんていうアドバイスがされることがあり、内心そんなことで変わるかと思っていたわけだが、オートモードから抜け出して、脳の新しい回路をつなぐ観点では大いに有効なのかもしれない。

どうせ同じ年数生きるのなら、楽して漫然と生きるより、多少負荷がかかっても自分の時間を多く生きたいと思う。

要領よく

かつて深刻な女だった私は

LINEの返信が半日ないだけで、不安で何も手につかなくなったし

終わらない業務量をひとり抱えて、日曜の夜には明日が来ないことを願っていたし

このまま誰にも愛されず選ばれずに死んでいくのかと思うと生きている価値がないように感じていた

だけどいまは思う この世のなににも 深刻になる必要などない

 

 

女のサバイブ

女だってこの世でサバイブしていかなければいけないことを、高校生の私はちゃんと知っていたのに、そのあと初めての恋をして、脳内お花畑のまま7年がすぎ、意中の人が夫になって、やっと目覚めてそのことを思い出す。そして気づく。この7年間なにも身につけていないことを。

ずっと働いてはいた。でもすべて自分の能力内だった。何も向上していない。何のキャリアもない。何も積み上げていない。結婚が唯一の目標だった。でも、愛する人と結婚した先には生活が待っていて、夢見心地のまま生活はできないのだった。

7年。長い。長いなぁ。

へつらえない系女子

私の長年の観察によれば、3人以上の女の集団には必ずボスができる

 

それが実際のボス=上司であればあまり問題はないのだが、大概はその中で一番性格のキツい美人か、一番声の大きい不美人である。

周りの人間は適当に合わせているだけで、心の中ではどう思っているかは察するにあまりあるが、

どうも私にはこの、女社会で必須スキルである、女ボスに適当に調子を合わせるということができない。

上司になら可能なのだが、女ボス相手だと「何の権限があってお前は私に対していばるのだ」と思う。もちろんそんなことは面と向かって言わないのだが、悲しいかな、態度で伝わってしまうようだ。(えー!すごーい!かわいー!どこで買ったんですかぁ?がいえない)

必然的に「なんだ!あいつは!生意気な!」と睨まれる羽目になるのだが、何度もこのような事態が繰り返された結果、ソリューションを見いだすにいたった。

それは、「あいつは変な奴だ。自分たちとは違う。」と思われることである。

 

どうも観察していると、男性は彼女たちのターゲット外だし、同僚の外国人女性もターゲット外だ。年が離れていても対象外だし、役職、職種が違っても対象外だ。

要は同カテゴリーのなかだけでいばっているのである。

ということは、自己研鑽に励み出世したり資格取ったりと同カテゴリーから抜け出すのが一番理想的なソリューションなわけだが、これには数年スパンで取り組まねばならないし、抜け出した先にも女がいる限り同じことだ。

 

その点、あいつは変な奴だと思われることは割と短期間で可能なことのように思われる。

 

転職早々、「先日夫の赴任地のアフリカから帰国しました。ルガンダ語が話せます。」とか

「サンスクリット語を勉強中です」とか

要はテレビドラマの話題で盛り上がるOLたちの住む世界とかけ離れていれば何でもいいのだが、こうすると、彼女たちから、変な奴として相手にしてもらえなくなる(もちろん願ったり叶ったりである)。

また、面白いやつだと思ってくれる人も中にはいるから、人間関係が希薄ということにもならない。

 

変な奴だと思われること、それが女社会でへつらわずに生きていくコツである。