空虚

夫は出張が多くて不在がちなのだけど、今回は特に長い。

1,2週間は平常モードでいられるのだけど、それをすぎると途端に、空虚感に覆い尽くされる。そして何もかもめんどくさくなる。

平日は仕事にいかなければならないのでまだマシだけど、休日になるとお風呂にも入らず、洗い物もせず、なにかしらのスピリチュアルグッズをネットで買い漁るという我ながらヤバイ状態になる。

なんとかしないとと思うのだけど気力がわかない。

とはいえ、この空虚感は新しく登場したものではない。大学生で一人暮らしをしていた頃はもっとひどい状態だった。そんなとき、夫と出会って、あぁ、やっと、人生で本物を見つけたと思った。生きていることをはじめて実感した。たぶん他の人が天職を見つけたときもこんな感じなんだろうなっていうような。

 

夫がいるときはわたしは幸福だ。夫がいないとわたしは空虚だ。

でも夫はわたしがいなくても遠い国で生き生きと仕事をしている。

 

昔読んだ本に、あなたがいなければ生きていけないというのは、愛ではなく依存だとかいてあった。

 

だけど、じゃあどうすれば、どうすればいいのだろう。

 

 

正義は

どんなときでも勝たねばならないのだろうか

真実は必ず暴かれなければならないのだろうか

たとえば夫の怪しい行動を察知したとして、見事!浮気の現場を押さえられたとして、

離婚するとしたら慰謝料なんて高々300万、

婚姻を継続するとしても失われた信用はなかなか戻らない。

それなら、ん?っと思ったときに深追いしないで急ブレーキを踏む選択肢だってありだと思う。

 

自分モラハラ

夫から毎日モラハラを受けている奥さんに、もっとはつらつと、元気にいこうよ!なんていう人はいないのに、抱えているコンプレックスを誰よりも熟知したうえでモラハラをしかけてくる自分自身から24時間逃れられない私に元気を出せといったところで。

評価する私と評価される私を統合できたら一番いいのかもしれないけど、もし難しいならせめて誉めてやる気出させてよ自分。

 

自己嫌悪しているうちは

なにもしなくていい。

なぜこのような顔をしてなぜこのような仕事をしなぜこのような人たちと過ごしているのか、自己嫌悪しているうちはなにもしなくていい。なぜに対する答えは永遠に見つからないから。

このような顔をしてこのような仕事をしてこのような人たちと過ごしているのが紛れもなくこの自分だと引き受けないことにはどこにもいけない。心の奥そこから聞こえる。

I'm here! It's me! I'm here! It's me! 

 

 

適応能力

「最も強い者が生き残るのではなく、
最も賢い者が生き延びるのでもない。

唯一生き残ることが出来るのは、
変化できる者である。」と本当にダーウィンが言ったかどうかはおいといて、生命の誕生から連綿と命を繋げてきたものたちの子孫たる我々には恐るべきほどの適応能力が備わっていて、物の話では 結婚したり宝くじに当たったり目標を達成したりした幸福感も 離婚したり死別したり障害を負ったりした絶望も 時間がたてばその状態に慣れることで薄れていって大体元の程度に戻るそうだ。

ずっと幸福で居続けられないことはずっと不幸で居続けなくてよいことと表裏一体であり生存には有利なのかもしれないが、幸福を追求せよと煽りたてる(消費活動を活発にするために)社会のなかでは幸福でない自分にはなにか重大な問題があるように思ってしまう。

だけど私が幸福でないのはご先祖様から受け継いだ適応能力のせいだ。それは絶望から私を救い、幸福を奪う。そして生命を繋いでいく。

もやもや

最近心が晴れない。

冬に元気がなくなりやすいタイプなので、それもあるかもしれないけど、まだ過ごしやすい気候なのに。

仕事は飽きているけれども強い不満はなく、夫とも仲良くやっている。特に困っていることも悩んでいることもない。

だけど、日々心に溜まっていく澱。有休とって、一人、温泉に行ってみたけれども、効果なし。

ヨガに行ったら幾分ましになった。でもましになっただけ。

友人と高級料理を食べに行けども、そこにおり、休日に一日中寝てもそこにおり。

このもやもやは一体なに。

でも少しだけ心当たりがある。

やるべきことから逃げているときの憂鬱。

ささいな、でも放置されたTo Do たちが私から気力を奪う。

漫然と生きている限り「自分の時間」はない。

朝、目覚まし時計の音で起き、いつものシリアルを食べ、満員電車に乗り、大体8時間ほどパソコンの前に座ったあと、再びpackされながら帰宅し、適当な夕食を作って食べ、残った気力を振り絞ってお風呂に入り、すっかりヘロヘロになったところで思う。今日、私には自分の時間がなかった。身体はもう疲れたし、早く寝てくれと要求するのだが、心が納得してくれない。このまま寝ては私は今日生きていたとは言えない。何かするべきだ。こうなるとさっぱり寝付けなくなる。かといって、起きていてすることといえば、だらだらスマホを眺めたり、どうでもいいような本を読んだり。得てして不完全燃焼のまま、翌朝の自分に呪われることになる。具合が悪い。昨日なぜ早く寝なかったのだと。

 

しかし、考えてみれば、朝起きた瞬間から、それは私の時間だったのである。それなのになぜ、一日の大半を「自分の時間」だと思えないのか。それは、私が漫然と生きているからだろうと思う。すっかり慣れた通勤路、何百回となく繰り返した作業、毎日会う同じ顔ぶれ。初めはすべてが新鮮だった。電車の外に流れていく景色は面白かったし、ドラッグ&ドロップはゲームみたいだったし、フルグラはなんておいしい食べ物だと思ったし、この人の隣で眠れたら天国のようだろうと思った。

それらの刺激はすべて、繰り返し繰り返し脳の同じ回路を通り続け、回路は強化され、しまいには自動的にその回路だけが使われるようになった。漫然と生きている、ゲームでよくある「オートモード」状態に「自分」の意思は介在しない。だから私には「自分の時間」がない。

 

海外旅行に行くと「生きている感じ」が得られるのは、オートモードが適用できないからだ。ぼーっと地下鉄に乗っていればスられるし、何も考えずに水道水を飲めばお腹を壊すし、ただ待っていては道すら渡れない。そういう状況では自分の本能が立ち上がるのを感じる。五感が敏感になる。エネルギーの消耗は激しいが、充足感がある。もちろん、その国に住んで慣れてくれば、その国用のオートモードができあがってしまうだろうけど。

 

よく、人生を変えるにはという問いに対して、通勤路を変えてみましょうなんていうアドバイスがされることがあり、内心そんなことで変わるかと思っていたわけだが、オートモードから抜け出して、脳の新しい回路をつなぐ観点では大いに有効なのかもしれない。

どうせ同じ年数生きるのなら、楽して漫然と生きるより、多少負荷がかかっても自分の時間を多く生きたいと思う。