真実はない

同程度の厳しいストレス状況下で、「ストレスは健康に悪い」と考えていた人たちの寿命は短く、「ストレスは成長の機会だ」と捉えていた人たちの寿命は、ストレスの少ない人たちよりも長く、そして幸福だったという。

 

ストレスは健康に良いのか悪いのか。真実は分からない。第一ほんの数十年しか生きていない人間に、46億年の地球の真実なんて分かりっこない。

 

それならば、自分にとってより目的適合的な考え方を「採用」すればいいだけだ。

 

自分は美しいの醜いのか。死んだら消滅するのかあの世にいくのか。輪廻転生はあるのかないのか。戦争はよいのか悪いのか。そこに人間にわかる真実はない。ただどう考える方が自分の目的に沿うかを思考し、そちらを採用することしかできない。それは決して真実ではないから、もし目的に合わなくなったら、軽やかにそれを捨てられる。

自分の思い込みを一つ一つ点検し、それを採用していることがベターなのか否か検討する膨大な作業、なんてワクワクするのだろう。

 

万人にとっての正しさはないけれど、それぞれにとってのベターはあるのだ。 

 

 

 

 

朝目覚めたときに

与えられたエネルギーを何に使っているかをつねに意識したい 大切につかいたい 漫然とではなくて

明日も与えられるかはわからない貴重なエネルギーを人の悪口をいったり憎んだりしてつかいたくない

私という現象が

風に吹かれてまわる風車だとして、風が吹きやめば、風車はただの物体になるし、風車がこわれれば、風は風車をまわすことができない じゃあその現象の実体は風かというとそうではなく 風車かというとそうでもない その現象が終わっても 風はどこかで吹き続けるし 風車は土に還って新たな生命を育む それはもはやここに立ち現れている私という現象ではない でもそれは続いてきたしこれからも続く 風が恐竜のほほを撫でていた頃から地球が太陽に飲み込まれる時まで あるいは宇宙が始まった日から収束するその日まで

すべて存在するものは

よきものであるとはトマスアクイナスの言葉らしいが、わたしは小さな頃から自分の存在が不安だった わたしはここにいていいのか わたしは正しい行動をしているか

この大きな不安はずっとわたしのそばにいて、成長過程で形を変えながらわたしを占拠した

小学生のころはクラス替えのたびに仲良しのこができるか

中学生のころは第一志望の高校に受かれるか

高校生のころは第一志望の大学に受かれるか

大学生のころは資格試験に合格できるか 

20代のころは私を愛して結婚してくれる人がこの世にいるのか

30代にはいったいま はたして子供はわたしのもとにやってきてくれるのか 子供が産まれたとしてきちんと育てられるか

 

これらの不安をごまかすために神頼みをし、カウンセリングをうけ、お守りを買い、留学をし、ヨガをならい、できることはなんでもやった

 

あぁでもそいつはいつでもいる

わたしはここにいていいのか

わたしはただしいのか

 

すべて存在するものはよきものである

すべて存在するものはよきものである